ライフネット生命の出口社長に歴史を学ぶ Part 4 (16) ノルマン・コンクエスト
こんにちは。Victoriaです。
2012年7月14日、京都大学百周年時計台記念館で開催された、
ライフネット生命保険の出口社長による「5000年史 Part4 11、12世紀の世界」の講義録、
今回は、「十字軍結成前夜 ノルマン・コンクエスト」。
さて、
出口社長のレジュメではたった一行ポツンと記載されているこの事件、
1066年、ノルマン・コンクエスト。
山川出版社の世界史用語集によれば、
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ウィリアムというのは、ノルマンディー公ウィリアムのことで、
ノルマンディー公国をまとめたのち、
1066年、イギリス南部に上陸し、イギリス軍を撃破。
イングランドを征服してノルマン朝を樹立し、
ウィリアム1世(在位1066〜87)を名乗った。
イギリスにとって、
ノルマン・コンクエストのあった1066年というのは大変重要な年号で、
なぜなら、以後、イギリスは戦争に負けたことがないから。
1000年間負け知らずというのはすごいことで、
ここらへんがイギリスの強さだと思うんだけど、
なぜ、フランス王の臣下がイングランドを征服できたのか?
答 : たまたま前の王様が死んだ時、誰を後継者にするかでもめて、我こそは、と名乗りをあげた王様候補たちがお互い殺し合ってるところに参入して、あっというまに勝っちゃった・・・
結局、
ウィリアムが一番ケンカに強かったからってことだと思うんだけど、
なぜ、フランス王の臣下であるノルマンディー公がイングランドの王様に名乗りをあげたかというと、
1016年、
クヌートが北海帝国を築き、
イングランドを支配したんだけど→ライフネット生命の出口社長に歴史を学ぶ Part 4 (13) 王朝の盛衰 - Victoriaの日記
1035年にノルマン系デーン人だったクヌートが死ぬと、
後継者争いでもめて、
あっというまに北海帝国崩壊、
イングランドではアングロ・サクソン系王朝が復活。
ウィリアムは実は、クヌートのいとこだったので、
イングランドはもともとオレ達のものだったんだから、
オレ様が支配してやろうじゃないの・・・
また、
1066年にエドワード懺悔王(ざんげおう)が死んだ時、
自分の義理の兄を後継者に指名してあったんだけど、
以前に、ウィリアムにも後継者にしてやるよ的な口約束をしてあったため、
それを根拠にウィリアムが後継者に名乗りを上げた。
エドワードの名前の「懺悔(ざんげ)」というのは、
迫害に屈せず信仰を守った聖人という意味で、
その名のとおり、
徳の高い人間的にすぐれた人物だったらしい。
しかし、
政治家としては押しが弱く、
また、法的には結婚していたにもかかわらず、
修道士としての純潔を守りたいとの一心で、
後継者をもうけなかったことも、
後継者選びの混乱に拍車をかけた。
ということは、もしかしてエドワード懺悔王、
生涯バージンを守り抜いたっていうこと???
う〜ん、
エドワードは自分の意思を貫いたんだからいいとして、
妻はそれをわかってて結婚したのだろうか・・・???
・・・ということで、本日の結論 :
そんな修道士そのものの人生を歩んだエドワード、
王様としてはヘタレの部類で、
虎視眈々と王の座をねらう荒くれ者の目から見れば、
スキだらけだったことは容易に想像できる。
ウィリアムに、
将来はボクに任せてもらえますよね、
なんて言われて、
うん、そのつもりだよ、
くらいのことは言ったかにちがいない、
本人としては、
それで言質を取られたなんて意識はなかったかもしれないけど。
加えて、
エドワード懺悔王はノルマン人に対する信頼が厚かったため、
それもまたノルマン・コンクエストの下地をつくる要因となった。
血気さかんなウィリアム、
さっそうとイングランドに乗り込んで、
いろいろと、残忍なことをしている。
各地の戦いで諸侯の土地を没収すると、
手下にほうびとして分け与えたんだけど、
敵の陣地に攻め入ると、
家畜や農作物を含めて何もかも焼き討ちにしたという。
ソフトな王様の後は、
ハードな王様が出るっていう諸行無常がここにも・・・
・・・
さて、
混乱に乗じて一国の王となったウィリアム、
一体自分がどんくらい金持ちになったかを調べようと、
土地台帳を作らせている。
それが、世界初の土地台帳として名高い、
Domesday Book(ドゥームズデイ・ブック)。
たとえ豚一頭でももれなくあげろとの号令のもと、行われた徹底的な調査のおかげで、
われわれは11世紀のイギリスについて詳細な資料を今でも見ることができる。
・・・
ウィリアムの戴冠は1066年12月25日、
ウエストミンスター寺院で行われた。
ロンドン塔を建設したのはウィリアム、
かなり残酷なやり方でどんどん土地を奪っていったので、
頑丈な要塞がないと枕を高くして寝られなかったのだろう。
フランス王の臣下がイングランド王を兼ねたということで、
文化的な面、特に語学面で大きな変化が起きた。
ウィリアム以降300年にわたって、
イングランドの宮廷の公用語はフランス語になる。
宮廷外の一般人はひきつづき英語を話していたわけだが、
英語もフランス語の影響を受け、
たくさんの単語がフランス語から英語に入ってくる。
例えば、
adventure, beautiful, colour, fruit, honest
などである。
また、動物を表す単語と肉を表す単語が別々になったのもこの時期で、
例えば、pig - pork, cow - beef などである。
法廷や公文書なでもフランス語表記が基本で、
1362年に英語を使うよう規則が定められるまでずっとそうだった。
・・・ということで、本日の結論 :
現在わたしたちが知るイギリスの原型は、
ノルマン・コンクエスト後に形づくられた。
Victoriaでした。
・・・
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