今週のお題「好きな調味料」  かつおだしが教えてくれた真実の愛

あれは忘れもしない、今から18年前の2月11日のことだった。

私は病院の待合室にいた。
もしかしたら、待合室ではなかったかもしれない。
壁が灰色で、いすがたくさん並んだ、だだっ広い部屋の一番後ろのいすに私は一人で座っていた。

奥のドアをカチャリと開けて、白衣を着たドクターが入って来た。
「出てきた」と言うべきかもしれない。なぜなら、ドアの向こうは手術室だったから。
ドクターは、両手で銀色のトレーを持って歩いてきた。

私の隣のいすに座ると、
「手術は無事終わりました。これがお母さんの患部です。ほら、ここの灰色の部分、これがガン細胞ですよ。全部取りましたからもう大丈夫です。」
そう言って、トレイの上いっぱいにひろがっている、灰色がかったピンク色のものをちょっと持ち上げて見せた。

最初、ドクターの言っている意味が何のことかさっぱりわからなかった。
ちょっと顔を近づけて・・・

仰天した。
それは、手術で切り取られた母の左の乳房だったのだ。

その時まで私は、ガンの手術をした場合、家族に患部を見せることがあるという事実を知らなかった。父が、
「どうしても外せない仕事があるから、代わりに立ち会ってくれ」
と私に何度も何度も懇願した理由がやっとわかった。
父にはとても母の患部を見るなんて耐えられなかったのだろう。

「母は・・・」

「もうすぐ麻酔が切れますから、麻酔が切れる時には部屋にいてあげてください」
そう言ってドクターはトレイを持ってさっき入って来たドアから出て行った。

病室に行くと、酸素マスクをつけた母が横たわっていた。
まだ、麻酔はきれていない。
何分くらいたっただろうか。
どこかで、ポンプの空気がつまったような音がゴォー、ゴォーとしている。
部屋の中を見回して・・・

母だった。
呼吸が出来ないのだ。
息を必死で吸おうとしているのだが、気管がつまっているのか、空気を吸うことができないで喘いでいるのだった。

必死でナースステーションに走り
「お願いです。母が呼吸出来ないんです。」
と叫ぶとすぐに看護婦さんとドクターが駆けつけてきた。

ドクターは母を見ると血相を変えて酸素マスクを外し、あごを持ち上げて口をこじ開けた。
医療のプロ達が血相を変えて動く様を呆然と眺めていた私は、体が硬直してしまって一歩も動くことができなかった。

ドクターの奮闘の末、母は息をふきかえし、麻酔も切れて話をすることもできたので、安心した私は階下の食堂へ降りていった。なんだかあたたかい場所で座りたかったのだ。
もう食事時は過ぎていたが、食堂ではゆであがったばかりのうどんが湯気をたてていた。
ぷーんとにおってきたのはかつおだしのにおい。
そのにおいをかいだ途端、私は小学3年生の時の出来事を鮮明に思い出した。

その日、私は学校を休んで朝から2階の子ども部屋で寝ていた。
子どものころの私はひ弱で、雨にぬれたといっては熱を出し、給食にあたったといってはおなかをこわして学校を休んでばかりいた。

その日は、本当に朝から熱を出して寝込んでいた。
父や弟が朝食を済ませ、ばたばたと出掛けていく音が聞こえなくなり、母がかける掃除機の音がやむと急に家の中はしーんとした。
2階の子ども部屋は南向きで、太陽がぽかぽかとふりそそぎ、ほっぺたが赤くなっていたのは熱のせいばかりではない。

家族のいない家ってどうしてこんなに静かなんだろう。

そんなことを考えながらうつらうつらとしていると、母が階段を上ってくるスリッパの音がした。
部屋のドアが開くと、いいにおいがする。
うどんだった。
湯気の中でうどんの上にかけられたかつお節がちりちりと音をたてている。
漂ってくるのはかつおだしのいいにおい。
いつもは、キッチンのテーブル以外で物を食べるのを禁じていたのに、その日は特別扱いで、ふとんの中でうどんを食べさせてくれた。
刻んだ油揚げが卵でとじられていて、とてもおいしかった・・・

病院の食堂でかつおだしのにおいをかいだら、その時の映像が一気によみがえってきた。
気がついたら涙が止まらなかった。
あんなに、若くて、はつらつとしていて、いつもてきぱきと家事をこなしていた母。
「お母さんって美人ね」
と友達に言われるのがちょっと自慢だった、あの母が、どうして、どうして、こんなふうになっちゃったの。
あんなにスタイルがよくて、「とても子持ちには見えない」なんて言われて照れていた母のおっぱいが、切り取られてしまったなんて、なぜなの。

どうして、
どうして、
どうして・・・・

気がついたら食堂の隅で私は泣いていた。
涙が滝のように流れて止まらなかった。
誰も私に声をかけずに放っておいてくれたのは、ここが病院だったからだろう。
入院していたお母さんが亡くなったのだろうと思われていたにちがいない。

その時、私は外国人の彼と住んでいた。
3日後の2月14日には日本を出て、彼の国に二人で帰り、結婚するつもりだった。
私が外国をふらふら放浪したあげく、言葉も通じない彼をつれて帰ってきて、もう日本には帰らないと宣言したのでこの3ヶ月というもの毎日毎日母とはもめていた。私が外国へふらっと行ってしまったのも、もとはと言えば、何かと私の人生に干渉してくる母がうっとうしくて、少しでも母から離れて暮らしたかったからなのだ。

家に帰ると、彼が荷造りしていた。
「お帰り」
そう言って近づいてきたが
「魚くさい」
と言って嫌な顔をした。
食堂に長くいたので、かつおだしのにおいがしみついていたのかもしれない。
彼の国では魚でだしをとる習慣はない。
どんなに周囲に反対されても彼への愛はゆるがないと思っていた。
でも、その日病院で起こったことをどうしても彼に説明することはできなかった。

結局、私は彼について行かなかった。
空港まではいっしょに行き、いったん出国手続きまでしたのだが、搭乗ゲートをくぐることはできなかった。

空港での別れが、彼との永遠の別れになった。

その後、母はなんとか健康を取り戻し、今も父と二人で暮らしている。
だいぶパワーダウンはしたけれど、何かと私の人生に口出ししてくるのも前と変わらない。

だけど、全く立場が逆転してしまった。
今では母のほうがわがまま娘で、私のほうが母のぐちを我慢強く聞く役目だ。

もしも、あの時、食堂でうどんをゆでていなければ・・・
もしも、あの時、母がうどんを作って食べさせてくれなければ・・・
今頃どうなっていたかわからない。

だから、かつおだしは私にとって幸せのバロメーター。
うどんの湯気の中でかつお節がちりちりと音をたて、それを「おいしいね」と言ってくれる家族がいる時が一番しあわせを感じる時。

そして、家族が病気になった時には、昔母がしてくれたように、うどんを作ることが我が家の伝統になった。

お母さん、生きていてくれてありがとう。
あの時、お母さんと別れていたら、うどんのお礼を言うこともできなくて、きっと私はどうにかなっていたと思うよ・・・