今週のお題「残されたノート」
彼女と初めて会ったのは、大学3年の最初のゼミのクラスだった。
私が通っていた大学は、2年生でゼミに入り、原則として4年で卒業するまで同じゼミに所属する。
しかし、やりたいことが見つからずふらふらしていた私は、2年生の時のゼミがしっくり来なくて、3年生で別のゼミに移った。だから、最初のゼミのクラスで友達がおらず、入り口近くの長机に一人で座っていた。
「あの、おとなり、いいですか」
と言って、白のブラウスに、淡い水色のスカートをはいた清楚な感じの女性が隣の席に座った。
「水谷といいます。私、短大から編入してきたんです。いろいろわからないことがあると思うので教えてください」
そういうと、彼女はちょこんと頭を下げた。
ゼミでは、二人一組で発表をすることになっていたが、2年生からの持ち上がりですでにペアができていた人達からはみだした私たち二人は、そのままペアになっていっしょに発表をすることになった。
発表のテーマを決めて役割分担をするために、ゼミが終わってから二人で話していると、実は彼女と私は同じ県の出身者だということがわかった。地方出身者の少ない大学だったので、それは奇跡に近いことだった。万事にずぼらな私と180度性格の違う水谷さんは、細かくノートをとり、発表のための分担表も、彼女と私のたった二人しかいないのに、きれいな表にまとめて一週間後に持ってきてくれた。
私たちの発表は、たしか6月だったと思う。テーマはすっかり忘れてしまったが、私が発表する役だった。
「人前で話すの緊張するから、お願いだからやって」
と彼女が言うので、中味はなくても適当に話をまとめることはわりと得意だった私は発表役を引き受けた。調べるのにも、私はあまり時間をかけた記憶がない。おそらく1日か2日でまとめたんだろうと思う。
彼女は、一週間図書館に通い詰めたそうだ。
「発表があるから、講義さぼっちゃった」
と言っていたのを思い出す。
私たちの発表が終わると、まもなく前期試験前になった。いつもは適当にサボっている私もさすがにまじめに講義に出ていた7月の始めのゼミに、めずらしく水谷さんが、講義時間が終わってから遅れてやってきた。
音もなく、突然現れたので、ちょっとびっくりして
「どうしたの」
と聞くと、それには答えずに
「ノート、貸してくれない?」
と言う。
「最近学校に来れなくて、講義に出てない。テスト勉強ができないから講義のノートを貸してほしい。」
あまり、まじめにノートはとっていなかったし、すごく汚くてわかりにくいと思うよ、と言うと「それでもいい」と言う。「テストまでには返すから」と言って、彼女はまた来たときのようにふっといなくなった。
それが、彼女との最後になった。
その日の午後4時。
水谷さんは、駅前のデパートの屋上から、自転車置き場に落ちて死んだ。
飛び降り自殺だった。
お父さんから電話がかかってきて、あわてて彼女のアパートに行くと、憔悴しきって体が半分くらいになったお父さんが泣いていた。お父さんにお目にかかったのは初めてだったが、おそらく本当は倍くらいの大きさはあっただろうと思われた。あんなに憔悴しきった男の人を見たのは、初めてだった。
「あの子のカバンに入っていました」
そういって、お父さんが水谷さんのカバンを持ってきてくれた。
彼女がいつもゼミに持ってきていた、薄い茶色の革のカバン。
デパートの屋上に、彼女の靴とカバンがきちんと揃えて残されていたという。
遺書はなかった。
だから、覚悟の上の自殺、ではなかったのだろう。
屋上から景色を眺めていて、ふっと風にさらわれるようにしてとんでいってしまったようだった。
まじめな彼女は、いつも教科書をいっぱい持ち運んでいた。
しかし、その日、入っていたのは、財布、筆記用具、化粧道具、それに、私が貸したノートだけだった。いつもはパンパンにふくらんでいるカバンが、スカスカに見えた。
「仲良くしていただいて、あなたのことはほんとに頼りになるて言うてました。あの子がお礼言えませんので、私から代わりに言おうと思いまして」
お父さんは混乱してしまって、娘のことを過去形で話すことができない。
私も、あまりのことに何と言っていいかわからず、
「いえ、いつでもいいんです。水谷さんが勉強が終わるまで貸してあげるって約束ですから、今でなくてもいいです」
と言って、ノートはそのままお父さんに返してしまった。
「明日、家につれて帰ります。」
お葬式は実家ですると言う。
聞くと、一週間くらい前から水谷さんの様子がおかしいので、自殺でもするんじゃないかと心配したお父さんが、仕事を休んで上京していたそうだ。
「今日は調子がいいみたいで、テストも近いし、講義休んでるから、ノートを借りに行くて朝から出掛けたもんで油断しとったらこんな事になって・・・」
そう言って、お父さんは泣いた。
私も泣いた。
人生で一番悲しかったあの日の夜。お父さんはあのアパートで一人でどうやって過ごしたのだろうか。
翌日お父さんはアパートを引き払い、水谷さんをつれて実家に帰ってしまった。
大学では試験が始まってしまったし、誘われなかったので水谷さんのお葬式に出ることもなく、その後水谷家の人とは音信不通になってしまった。
あれからもう25年が経つ。
もし、水谷さんが生きていれば、今頃、きっと娘が二人はいて、その娘も母親と同じようにまじめな大学生になっていただろう。きっと、よき母、よき妻で、幸せな家庭を築いていたにちがいない。
3ヶ月間、毎週同じゼミで隣同士の席に座っていたのに、私は水谷さんの名前が思い出せない。
なぜだろう、と考えていて、ふと思い出した。
私は彼女のことを名字でいつも「水谷さん」と呼んでいた。名前で呼んだことがないのだ。
ゼミではいつもいっしょにいたけど、ゼミ以外でいっしょにご飯を食べたり、お茶を飲んだ記憶もない。私は、自分のことを水谷さんにどれくらい話していたのだろうか。
私も、あんまり大学にはなじめずにいたこと。
高校時代に勉強しなかったので、結構大学に入ってから困っていたこと。
周りは就職の話なんか始めていたけど、私は就職活動する気になれずにいたこと。
そんな話を二人でした記憶がない。
あの日、ノート貸してあげる代わりに「ノートはないけど、授業の内容なら覚えてるから、話してあげるよ」って言って、二人でお茶でも飲みに行けばよかった。ゼミの教室からふっといなくなったあの時、水谷さんは、私の世界からもいなくなってしまったのだ。
「おいしいケーキ屋さんがあるのよ。二人で講義さぼって食べに行かない?」
その一言を、この25年間に何度心の中でつぶやいたことだろう。
私の人生で一番悲しかった日。
あとには、一冊のノートだけが残された。
水谷さんは、あのノートの中味を見たのだろうか。