「虫のふり見て我がふり直せ」

虫のフリ見て我がフリ直せ

虫のフリ見て我がフリ直せ

養老先生が、本職の虫の話を縦横無尽に語っておられます。
1月ずっと休みがなく、昨日まで会社の経理事務に忙殺されていて気持ちが殺伐としておりましたので、ビタミン剤代わりに簿記論の勉強ほったらかしにして読ませていただきました。

驚いたのは、養老先生、今、ヒゲボソゾウムシという虫にはまっておられるようで、日本中を駆け回って、ヒゴボソゾウムシの分布などお一人で本格的にお調べになっているということです。

う〜ん、どこかの山で歩いている時に、虫を追っかけている養老先生にばったりお目にかかったりなんかしてみたい。

いろいろ、思わず付箋をはってしまう名言があって、読みながら忙しかったのですけども、日本人に階層性がないという話で、養老先生によれば、それは「関係節」がないからじゃないかと。英語で日本人が苦労する「関係代名詞」ってやつですね。「関係節」のある言語では、単一の文章の中にヒエラルキーがある。学問というのは基本的に意識の作業だから、根本的に言語的な世界であって、言語自体に階層性のある民族は、階層的に考えるのが得意なんじゃないか。それがない日本語を話すわれわれは苦手なんじゃないか、というお話で、ものすごく納得いたしました。

また、さすが、世界中の山で虫取りされている先生ならではのお言葉で興味深かったのは、山に入るだけの道がついているのは世界中で日本だけだっていうことです。ほかの国では、道というのは家に行くためのものであって、ただ山をぐるーっと回って帰ってくるという道は日本独特のものなんじゃないかということでした。

なるほど。熊野古道なんていうのも、ものすごくムダに民家のないところを通っていったりするものなあ。「峠」という漢字が国字であることを考えても、中国人ともかなり感覚が違うんじゃないかと述べておられます。儒教の中には自然という言葉が一切でて来ないことから見ても、儒教は都市イデオロギーである、とおっしゃってます。

確かに、日本で書かれたものは、万葉集に始まり、およそ、自然が出てこないもののほうが少ない気がする。古事記日本書紀でもっとも多用されている単語は「なる」だそうです。木に実がなる、の「なる」です。

日本が、先進国の中では驚異的に自然が多いのは、庶民のあいだに「木を伐ったらたたりがある」という文化的背景があったからで、ご神体として山それ自体をまつってしまう山岳信仰にそれがあらわれているとおっしゃっています。

山を開発しつくしたら死んでしまうから、入会地を確保したり、あるいは水争いを庶民レベルで解決してきた。忠臣蔵の裏話として、あれは、桑名の吉良と、三河の徳川は領地が接していて、長良川の水争いがあり、吉良が水利権を持っていた。それで、「吉良をつぶせ」となって赤穂浪士の討ち入りとなったが、幕府が内々に認めていた話ではないか、という説を紹介されていまして、なるほどと思ってしまいました。

養老先生は、進化は先細りだとおっしゃっています。一般社会では進歩史観にもとづき、進化は永久に発展していくと理解しているけど、そうじゃないんだよ、と。DNAで遺伝が進んで進化していくわけですが、最初に4つの塩基でいくと決まっていて、あとはその中でいろいろ工夫していくというのであれば先細りでしかない。

遺伝子といえばドーキンスの「利己的な遺伝子」が有名ですが、養老先生はドーキンスに対しては否定的。遺伝子というのは情報だから、情報としての遺伝子が中心にあるという考えが情報化社会そのものであって、細胞がなければ遺伝子に意味はない。それはちょうど、情報そのものは変化も進化もしないものであって、それをシステム、つまりわれわれの脳が利用しなければ意味がないだろうとおっしゃっています。生き物がなぜDNAを使うかと言えば、レプリケーション(再生)が可能だからだ、と。

ひさしぶりに魂が洗われるようなさわやかな読後感にひたることができました。
今日のためにこの本をとっておいて本当によかった。

養老先生、これからも虫のお話、待っています。

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