戦時下、隠された二つの地震

こんにちは。Victoriaです。
みなさま、東南海地震三河地震をご存じでしょうか?
太平洋戦争中に東海地方をおそった大地震で、たくさんの被害が出たにもかかわらず、「戦力の低下を招くから」という理由で報道されませんでした。

しかし、しっかりと記憶していらっしゃる方がまだまだご健在で、Victoriaも、地元のおばあさま方から、いかに恐ろしかったかという話はよく聞いていました。

今日、朝日新聞でこの地震についての記事を発見しましたので、ご紹介します。
http://www.asahi.com/national/update/0103/NGY201101030005.html

>> 戦時下だった66年前の冬、東海地方を2度の大地震が襲った。東南海地震三河地震。合わせて死者3千人を超す惨事は、政府と軍による情報統制で隠された。東南海地震で工場が倒壊し、学徒動員の同級生23人を失った長坂宗子さん(81)=名古屋市千種区振甫町=は、今も体験を語り続ける。そうさせるのは、「何が起きたかを後世に残さないと、亡くなった同級生たちが救われない」との思いからだ。

 長坂さんは当時、愛知県豊橋市立高等女学校の3年生。学徒動員のため、同県半田市中島飛行機製作所山方工場で同級生約300人と働いていた。「お国のために」と張り切り、偵察機「彩雲(さいうん)」の風防ガラスを作った。

 1944年12月7日午後1時36分。昼休みを終えた直後、突き上げるような揺れが襲った。工場の天井に張り巡らされた直径10センチほどの鉄パイプが、のこぎり屋根もろとも崩れ落ちた。作業台のすき間にしゃがんで直撃を免れ、崩れた屋根の窓を割って外に出ると、れんが造りの工場はぺしゃんこになっていた。

 同じ班の仲間は無事だった。だが、翌朝の点呼で整列すると、人数が少ないクラスがあった。「みなさんの同級生が地震で死んだ」。学年主任が声を絞り出した。

 「それからはみんな半狂乱でした」。23のひつぎがトラックで故郷へ運ばれた。亡くなった友人の一人は、父の出征で豊橋の親戚の家に疎開してきていた。「死ぬために疎開してきたようなもの。かわいそうで仕方なかった」

 同県防災会議によると、山方工場では153人が死亡し、動員学徒が96人を占めた。工場が軟弱な埋め立て地に立っていたうえ、作業用の空間を確保するために内部の支柱を撤去していたことが強度の弱さにつながり、被害が拡大した。

惨事の全容を当時の政府や軍、新聞は隠した。戦局が悪化する中、戦力の低下を推察させるという理由だった。翌日の朝日新聞(東京本社発行)は、東海地方の状況を2段見出しの小さな記事で「一部に倒半壊の建物と死傷者を出したのみで大した被害もなく」と書いた。

 「みんなお国のために真剣に働いた。国が負けていたとはいえ、『大した被害なし』と伝えたまま頬かむりするのは、亡くなった人たちを馬鹿にしている」

 長坂さんは戦後に女学校を卒業し、20歳で結婚した。3人の子どもには戦争体験を繰り返し聞かせ、2008年夏に「戦争と平和の資料館ピースあいち」(名古屋市名東区)で小学生に体験を語った。翌年発足したピースあいちの「語り手の会」にも加わった。同会には長坂さんを含めて82人が登録し、最高齢は96歳。だが、発足以降、2人が亡くなり、「戦争体験を語れる人が少なくなっている」(竹川日出男副館長)。

 長坂さんはひざを痛め、外出が難しくなった。だが、「戦争の記憶は風化していく。戦争のない今が幸せだということを、しゃべれるうちに伝えたい」。若くして亡くなった同級生たちの無念さが、その思いを強くする。(工藤隆治)

     ◇

 〈66年前の2度の大地震〉国の中央防災会議によると、1944年12月7日に発生した東南海地震は、震源和歌山県新宮市付近でマグニチュード(M)7.9。1223人が死亡した。1カ月余り後の45年1月13日には、愛知県東部で内陸直下型の三河地震が起きた。M6.8で、死者は2306人に上った。三河地震東南海地震で誘発された「広義の余震」だった。 <<

この地震の影響で、高波が出て大変な被害があったという話も聞きました。

今なら、まだ生々しい記憶をお持ちのおじいさま、おばあさまの話が聞けると思うので、身近にいらっしゃる方は、ぜひ聞いてみてはいかがでしょう?

Victoriaでした。