水野和夫・萱野稔人 「超マクロ展望 世界経済の真実」  (7) 資本主義は市場経済とイコールではない

こんにちは。Victoriaです。

超マクロ展望 世界経済の真実 (集英社新書)

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今回は、「資本主義は市場経済とイコールではない」のまとめです。

1 資本主義においても経済と政治は一体である

中世の封建制社会が近代主権国家に変わっていく16世紀あたりでは、もっとも強大な資本家が国王を兼ねていたので、資本と国家は一体だった。

1600年にイギリスが東インド会社を設立するが、そのころのイギリスは海賊国家というべきで、略奪が初期の資本蓄積では本質的な役割を果たした。

アメリカも独立戦争の時、イギリスの商船や艦船から略奪した富で、初期の資本蓄積を加速させている。

資本主義の成立において、軍事的なものが不可欠で、国家の役割が重要だったということである。

市民革命が起きてからは、国王がいなくなると同時に、国民のなかから資本家があらわれて、国王と国家の関係がそっくり国民(=資本家)と国家の関係にとって代わられる。

略奪が資本主義における搾取の原型であったのは、初期の資本主義だけでなく、有利な交易条件のもとで成立してきたその後の資本主義にもあてはまる。

富を獲得し資本を蓄積しようとする主体が、同時に暴力を行使する主体でもあるという意味で、特に初期の資本主義において経済と政治は一体であったといえる。

2 市場と税の関係

資本主義以前の時代であっても、国家と経済は結びついていたので、資本主義の資本主義たるゆえんはどこにあると考えたらいいだろうか。

資本主義がそれまでの社会体制と違うのは、もともとは暴力を背景にして人々の労働を支配していた主体が、暴力を専門的に担う主体(つまり国家)と、労働を管理する主体(つまり資本家)へと分離してきたということだ。

これによって、国家のほうは直接には経済活動にかかわらなくなり、資本の担い手のほうも暴力をみずから行使することがなくなった。

同じような役割分担は、暴力を専門的に扱う部門と、フロント企業のようなかたちで経済活動に特化していく部門とに役割分担しているやくざ組織にもみられる。

しかし、だからといって市場経済だけで資本主義が成立していると考えることはできない。
2008年の金融危機で、アメリカの金融機関に公的資金が注入されたことをみてもわかるように、国家とは、この社会で唯一、市場とは別の論理でお金を合法的に調達できる存在である。

今回の公的資金の注入で示されたのは、そうした国家の存在がなければ、市場自体なりたたなくたってしまうということだ。

つまり、資本主義は、国家による税の徴収と、資本による利潤の追求のふたつが相互にむすびついて成り立っているわけだ。

3 国家と資本が分離する 

13世紀から15世紀までの中世は、「労働者の黄金時代」と呼ばれ、農業の技術革新によって農民の実質賃金が上がり続けた時代である。

14世紀にヨーロッパの人口が減少したこともあり、年貢を重くすると逃げてしまって労働者がいなくなるから、封建貴族の取り分は少なくなる一方だった。

最後にはおそらく地主側の分配率はほぼゼロになってしまい、地主をやっていてももうからなくなってしまった。

そこで、封建領主たちは土地の支配者であることをやめていき、土地の所有権が抽象的な私的所有権になっていった。

土地の所有権が具体的な社会関係に依存しない純粋な所有権になると、たとえその土地に住んでいなくても、土地を売買したり賃貸したりできるようになる。

これが土地を資本として活用することへと道を開いた。

つまり、近代の資本制というのは、封建制に対立するものというよりは、封建制が機能不全になったのを乗り越えようとすることで生まれてきたのである。

そこでは、国家は所有の主体であることをやめ、私的所有の空間を法的・行政的にマネージしていく主体になっていく。

同じ事が20世紀にも起こっている。

産業革命以後、実質労働賃金はずっと上がり続け、資本主義も働く人の生活水準を上昇させるシステムとして成功した。
その帰結として経済の成熟化が起き、長期停滞しているといえる。
そして、リーマン・ショック後、資本の分配率がマイナスになり、資本の側がまったくリターンを手にできないという、16世紀と同じ状況になっている。

日本でも工場の海外移転が進み、労働市場を国内的に維持することができなくなってきている。

いよいよ、国民国家の枠組みでは、資本主義を担う主体にはなれなくなったということのあらわれであり、資本と国民国家は分離の方向へと向かっていく。

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まとめは、(8)へつづく・・・

Victoriaでした。