武田徹 私たちはこうして「原発大国」を選んだ (8)JCO臨界事故

こんにちは。Victoriaです。

今回は、1999年論 JCO臨界事故 原子力的日光の及ばぬ先の孤独な死 のまとめです。



<JCO臨界事故はなぜ起きたか>

JCO臨界事故はなぜ起きたか。

JCOはリストラを続ける会社だった。

最盛期に180人いた社員は1991年に162人に、98年には110人になっていた。

大卒技術者の減少は特に著しく、
事故に遭った3人のうち最も経験豊富の横川にしても、
「入社して一度だけ研修を受けたが、臨界の意味はよくわかっていなかった」
と県警の事情聴取に答えている。

わからないなりに、横川は自分が携わる作業について核燃料取扱主任者に安全かどうか尋ねているが、その返答は、
「大丈夫でなはいか」
だったという。
有資格者ですらその程度の認識だった。

1950年代、黎明期には原子力関係の仕事に就くことには希望があった。

しかし、事故が続くにつれ、就労者は虐げられ始め、
チェルノブイリ事故後、その傾向は一段と著しくなる。

原発労働者の被爆や、労働環境の劣悪さが告発され、
原子力関係の仕事に就くことは、
原子力こそが日本の繁栄を担っており、そこで働くことで自分もそれを下支えしたいという強い自覚があるか、
あるいは、何もわからずにただ雇用があるから働くかに二分されていく。

無知のまま仕事に臨む人の場合は、具体的に危険の内容について知れば絶対に安全などないとわかり、
恐怖を覚える場合があるので、雇用者の側もそれを恐れて知識を与えないという、
「寝ている子を起こさない」論理が働く。

<職業倫理とは何か>

JCO臨界事故では、事故の10分後にはJCOの上層部は臨界事故だと把握していた。

しかし、それを正しく伝えなかったため、消防隊員まで被爆した。

JCO管理職の中には、事故発生後すぐに家族に茨城県外に待避するように電話していた者もいたとされる。

事故直後、放射線汚染被害を止める作業に誰が従事するかということが問題となった。

結局、JCO職員が被爆を覚悟の上で作業に当たったわけだが、
将来、子どもを作る可能性の高い独身者と、現場に不慣れな管理職が外され、
突入作業にあたった職員のうち18人が被爆した。

「会社が世間に迷惑をかけたのでやらねばならないと思った」とJCO職員は語っている。

しかし、JCOの自己責任だけを問えたのだろうか。

この臨界事故は、日本が原子力利用を選択して以来のすべての歴史が関係している。

事故の原因は、単に裏マニュアルの存在や、作業員の不注意だけに還元されるものではない。

臨界の知識のない作業員が裏マニュアル通りの作業をしていて、今回に限って悲惨な事故に至ったのは、
濃縮率の高い燃料を加工していたからだ。

その燃料は核燃料サイクル機構の所有する実験炉「常陽」を運転するために必要だったのであり、
常陽はなぜ作られたかと元をただせば、国の核燃料サイクル構想のためだ。

JCOの社員は自分たちが迷惑をかけたからと、自分たちの自己決定権の範囲で水抜きに当たったように見えるが、
会社が歴史的に積み上げたゆがみの清算を、運悪くその時に居合わせた社員が行わざるを得ない状況に追い込まれたからだ。

また、JCO社員以外にも、救急隊員や医療関係者など、命を賭けざるを得ない人は他にもいた。

彼らにはあらかじめ仕事の危険性が正確に開示されるべきだったし、
生命の危険をかけることへの補償がそれなりに示されて合意される手続きを就業前に踏むべきだった。

このような事故対策が合意の上で行える設備やシステムをあらかじめ作った上で、原子力は利用されるべきだった。

アメリカのロングアイランドのショーラム発電所は、1965年に着工され、84年に完成したが、
住民が緊急時に3本しかない橋を渡って島から本土に待避することは物理的に不可能であるということで、
州および群当局が待避計画の策定を拒否し、
電力会社はついて操業を開始することができなかった。

堀江邦夫は「原発ジプシー」で、電力会社に、犠牲になっても仕方がないと見捨てられている下請け労働者の悲哀を描いている。

JCOの事故はまさにそうした見捨てられた労働者の悲劇だった。

原発ジプシー 増補改訂版 ―被曝下請け労働者の記録

原発ジプシー 増補改訂版 ―被曝下請け労働者の記録


JCO臨界事故については、こちらが詳しい→朽ちていった命 被爆治療83日間の記録 - Victoriaの日記

朽ちていった命:被曝治療83日間の記録 (新潮文庫)

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Victoriaでした。