ライフネット生命の出口社長に歴史を学ぶ Part 5 (34) 第4代皇帝モンケの即位と反対派粛清
こんにちは。Victoriaです。
2012/12/02 京都大学百周年時計台記念館で開催された、
「ライフネット生命保険の出口社長に歴史を学ぶ 13世紀の世界」講義録のまとめ、
今回は「第4代皇帝モンケの即位と反対派粛清」。
1251年、
モンケがモンゴル帝国第4代皇帝に即位。
モンケはチンギス・カンの末子トゥルイの子、
ようやく本家に皇帝の座を取り戻したぞ、と、
やる気満々で、
分裂ぎみだったモンゴル帝国の引き締めのため、
思い切って反対派の粛清に乗り出す。
まずは、おさらい。
第3代皇帝グユクが死んだのは、
バトゥとトゥルイの皇后ソルコクタン・ベキの共謀による暗殺。
これは、
そもそも、
グユクの母、第3代皇帝ウゲデイの皇后ドレゲネが、
ムリムリに息子を皇帝の座にねじこんだから。
つまり、
グユク暗殺に至るまでのいきさつを時系列にまとめると、
こうなります。
1241年 第2代皇帝ウゲデイが死ぬ
↓
1246年 次期皇帝に内定していたモンケを差し置いて、グユクが第3代皇帝即位
↓
1248年 いつまでウゲデイ家の好き放題させるねん、ここらで本家に取り戻そうやんけ!と共謀したバトゥ+ソルコクタン・ベキが、グユク暗殺
↓
1251年 モンケが第4代皇帝即位
めでたく、
皇帝になったモンケは、
ここからものすごい勢いで反対派の粛清に入る。
<モンケによって粛清=処刑されてしまった人たち>
- 第3代皇帝グユクの皇后オグルガイミシュ
- イェス・モンケ(チャガタイの息子でチャガタイ家の当主 : 一貫してグユクを支持していた)
- シレムン(ウゲデイの子クチュの息子 : ウゲデイが溺愛しており、いずれ後継者にするつもりだった)
家系図で示すとこうなります。
ここから読み取れることは、
モンケがウゲデイ家に対して、
相当な恨みを抱いていたということで、
実は、
これには理由があって、
そもそも、
モンケの父トゥルイは、
チンギス・カンの末子だったので、
遊牧民族の伝統に従えば、
トゥルイこそが後継者になる権利を持っていたわけだけど、
トゥルイは固持、
兄ウゲデイに皇帝の座を譲った。
この時、
次の皇帝職はトゥルイ家に戻すことで合意、
モンケを次期皇帝に内定していたと言われる。
ウゲデイ自身は、
第3子のクチュの息子、シレムンを溺愛していたため、
自分の後継者は、
シレムンかモンケにと考えていたのだが、
はっきり指名せず死去。
そこに、
皇后ドレゲネがしゃしゃり出てきて、
ムリムリにグユクを皇帝にねじこんでしまった。
モンケの父トゥルイが死んだ時のことを振り返ってみると(1232年)、
ウゲデイの部下として、
遠征に参加、
体張って貢献していたというのに、
若くして陣中で死んでしまって、
トゥルイが死んだのは、
ウゲデイが皇帝になった直後の出来事で、
モンゴルでは、
病気になった人がいると、
誰か近親者が犠牲になると治るという言い伝えがあり、
トゥルイはウゲデイの身代わりになって死んだという説と、
優秀なトゥルイに危機感を覚えたウゲデイによる暗殺という説があり、
いずれにしても、
ウゲデイのために死んだことは間違いない。
トゥルイは、
司令官としての座は兄ウゲデイに譲ったけれども、
末子相続の伝統に従い、
父チンギス・カンから莫大な財産を相続していたので、
いわば、
モンゴル帝国の皇帝の金庫は、
トゥルイが握っていたようなもの、
ウゲデイが、
金庫番である弟をうとましく思ったとしても、
何の不思議もない。
ということで、
長くなったんだけど、
ここまでの経緯をまとめると、
1229年 ウゲデイ皇帝に即位
↓
1232年 トゥルイ死(ウゲデイによる暗殺?)
↓
1241年 ウゲデイ死
↓
1246年 グユク皇帝に即位
↓
1248年 グユク死(バトゥによる暗殺?)
↓
1251年 モンケ皇帝に即位
↓
1252年 モンケ、反対派を粛清。
↓
ウゲデイ・ウルス消滅!
さきほどの家系図に、
暗殺の関係を書き込むとこうなります。
ということで、
父を殺された恨みは、
お家取りつぶしで晴らしてやったぜ!
ウゲデイ・ウルスはお家取りつぶしの刑により、
これにて消滅。
親の敵をとったモンケは、
以後、モンゴル帝国内での地位を固めるため、
さまざまな施策を打ち出していきます。
Victoriaでした。
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