ライフネット生命の出口社長に歴史を学ぶ Part 5 (61) 1281年、弘安の役は日本への移民船団だった?
こんにちは。Victoriaです。
2012/12/02 京都大学百周年時計台記念館で開催された、
「ライフネット生命保険の出口社長に歴史を学ぶ 13世紀の世界」講義録のまとめ、
今回は、「1281年、弘安の役は日本への移民船団だった?」
1274年に行われた、
モンゴルの日本遠征(=文永の役)は、
前回まで詳しくご紹介した南宋作戦の一環だが→ライフネット生命の出口社長に歴史を学ぶ Part 5 (60) 呂文煥(りょぶんかん)の変心 - Victoriaの日記
実はこれには、
前段があって、
クビライは、
1266年(幻のクリルタイの年)に、
高麗を通じて、
親書を送ってきている。
クビライは、
わりと筆まめで、
モンゴル語でしたためた親書を、
漢文に訳させたらしく、
非常に平易な漢文で書かれているとのことで、
その写しを、
見つけました。
これです。
杉山正明「モンゴル帝国の興亡 下」p119より。
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至元3年8月という日付が見えます。
こうやって見ると、
やっぱり、
漢字ってすごいね・・・
もちろん、
発音は違うから、
しゃべっても通じないんだけど、
文字だけで、
ほぼ100%意志の疎通ができるって、
ホント、すごい・・・
漢字は、
中国最大の発明なんじゃないかと、
いつも思う・・・
クビライは、
1274年に日本遠征軍を送り込むまで、
数回にわたって使節団を送ってきており、
クビライの名前でしたためられた日本国王あての書状は、
京都の朝廷と鎌倉幕府へ届けられたが、
返事はなし。
鎌倉幕府、クビライをシカトするの巻。
いやいや、
大胆すぎませんか・・・???
天下のクビライさまをシカトするなんて、
よっぽど自信があるか、
よっぽど世間知らずか、
どっちかでないとできないよ・・・
それで、
このクビライの書状を読み解こうという根性は私にはないので、
杉山正明先生の解釈を読ませていただいたところ、
なかなか穏やかな文面で、
戦争をふっかけようとかそういうことではなく、
一種の挨拶状だろうとのこと。
そもそも、
1266年といえば、
クビライはまだ大都建設にもとりかかっていないし、
とてもとても日本を征服するとか考えるゆとりはないので、
自分も政権奪取したし、
とりあえず、
「着任のごあいさつ」
を出してみた、
そんな感じらしい。
クビライ側は、
ちゃんと使節団を派遣し、
お手紙もとても礼儀正しく、
通常の外交の範囲内のふるまいをしたといえる。
それを、
どういう理由かはわからないんだけれども、
鎌倉幕府は黙殺した。
あいさつにあいさつを返さないと、
普通、
相手は怒ります・・・
ということで、
1274年、
第一回日本遠征で、
900艘からなるモンゴル艦隊がやってきた。
モンゴル軍は、
「てつはう」という爆裂弾をぶっぱなして日本軍をびびらせたりなんかして、
なかなか手強かったらしいが、
日本軍も善戦し、
結果的に、
語りぐさになっている「神風」が吹いて、
大損害を受けて、
モンゴル軍はすごすごと帰って行くわけだけど、
ただ、
モンゴル側の記録では、
この戦いを「負け」とはとらえていないらしく、
損害が出たといっても、
実はプロパーのモンゴル軍は無傷で、
この時途中で合流した高麗国の兵に被害は集中、
それに、
なんといっても、
南宋作戦の途上だから、
本来の目的ではない日本くんだりで、
大事な船団にダメージをくらっていたのでは、
元も子もない。
なので、
日本に存在をアピールしただけで、
ミッションコンプリート、
さっさと帰っていったというのが本当のところ。
・・・
時は流れて、
1281年、
第一回の日本遠征から7年がたち、
モンゴル、日本双方の事情が変わっていた。
まず、
日本側を見ると、
1275年に、
クビライから遣わされた使節団を、
執権北条時宗は殺してしまって、
前回の時のシカトとは違い、
今回はあきらかに、
あんたらのええようにはさせへんで!!!
という立派な意思表示。
もちろん、
次の来襲に備えて、
「異国警固」のため、
博多湾に石築地を築いて、
盤石の備えで、
蒙古軍を迎えた。
対するモンゴル軍だが、
こちらは、
10万の兵を送り込んだとされる。
問題は、
10万の中身である。
実は、
1276年に南宋接収を完了して、
モンゴル帝国は、
100万を越える旧南宋軍をそのまま引き継ぐことになり、
なんと言っても、
モンゴル軍のモットーは、
戦闘では相手を殺さず無傷で接収せよ。
投降者は歓迎・優遇せよ。
だから、
職業軍人をまるごと抱えることとなり、
それで、
職業軍人って、
給与生活者=公務員だから、
給料払って雇い続けなければならず、
もしも、
クビにしたら、
彼らは暴徒化することは目に見えているから、
それで、
優秀な者はどんどん取り立てていったけど、
優秀じゃない人たちの処遇は頭が痛い・・・
リストラしたくてもできない経営者の悩みをクビライも抱えていた?
・・・
それで、
どんな難問にも、
ゼッタイへこたれないクビライ政権は、
すごいウルトラCを編み出した。
こいつら、
全員、海外へ送ろうぜ!
ということで、
第一線ではちょっと使い物にならない「弱兵」たちを、
日本へ向かわせる。
彼らが携帯していたのは、
武器ではなく、
農器具。
実際、
武装していたのは、
彼らを指揮していた、
ごくごく少数のモンゴル武将だけだったらしく、
途中経過は省略して、
いきなり結論から述べると、
神風が吹いて、
沈没しちゃった船は、
全部、
江南軍=もともと武器持ってない移民組。
クビライが新しく作らせた大鑑は無事で、
そらそうだろうね、
クビライさまが、
台風ごときでひっくりかえるようなやわな艦船を、
実戦用に作るわけがない・・・
ということで、
弘安の役で吹いた神風は、
日本にとって救いの風であったと同時に、
もしかしたら、
モンゴル側にとっても、
正直、
いらなくなった南宋軍を、
まさか本気で沈めようと考えてはいなかったとしても、
邪魔だから(=給料も年金も払いたくないし・・・)という理由で、
日本に押しつけようとした時点で、
やっかい払いの意味合いがなかったかといえばウソになるわけだから、
ねえ・・・???
・・・
それにしても、
知れば知るほど、
南宋って、
ホント、
宝の持ち腐れっていうか、
クビライが喉から手が出るほど欲しがった豊かな土地と、
クビライが目標にするほどの最強の水軍を持ちながら、
リーダーに恵まれなかったがために、
何も活用できなくて、
結局、
国作りというのは、
何を持ってるか?ではなく、
持ってる資源をどう活用するか?なんだなあとつくづく・・・
・・・ということで、本日の結論 :
弘安の役は、
クビライ政権が苦肉の策で考えだした、
前政権から引き継いだ軍・官僚の失業対策だった。
Victoriaでした。
・・・
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