ライフネット生命の出口社長に歴史を学ぶ Part 4 (4) お金で平和を買うODAだったせん淵の盟
こんにちは。Victoriaです。
2012年7月14日、京都大学百周年時計台記念館で開催された、
ライフネット生命保険の出口社長による「5000年史 Part4 11、12世紀の世界」の講義録、
今回は「せん淵(せんえん)の盟」。
(すみません、せんの漢字、変換されないです。さんずいに「教壇」のだんの字の右側がつきます)
せん淵の盟を、
山川出版社の世界史用語集で調べると、
- 作者: 全国歴史教育研究協議会
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>>せん淵の盟 : 1004年、遼の聖宗と宋の真宗が結んだ講和条約。宋を兄、遼を弟とし、宋は毎年絹20匹・銀10万両を歳賜(さいし)として遼に贈り、国境は現状維持とすることなどを定めた。せん淵は条約締結地のせん州(河南省)の雅名。以後しばらく平和がつづいた。<<
というような説明がされていて、
絹20匹(ひき)って何よ?
とか、
宋を兄、遼を弟って何?
兄弟盃をかわしたってこと?
とか、
細かい点ではいろいろと疑問はあるものの、
一応、
国と国とが戦争を避けるために、
大人の対応をしたんだろうなあ、ということで納得の説明。
しかし、
出口社長によると、
せん淵の盟は金で平和を買うODAだった。
う〜ん、
そういうふうに説明されると、
何か全然違うもののように聞こえてくるから不思議だ・・・
これぞ、出口マジック!
詳細を見てみると、
キタイ(契丹=山川の用語集では遼)の第6代皇帝聖宗(982〜1031)は非常に優秀で、
名君として知られていたんだけれども、
1004年、
大軍を率いて南下し、
北宋領の黄河河畔に侵攻、
数十万の兵が対峙。
対する北宋の3代真宗(997〜1022)はお坊ちゃまで、
早い話が腰抜けだったので、
聖宗の軍が南下してきたニュースを聞くやいなや、
すたこらさっさと逃げる算段を始めたらしい、
ボク、イタイのキライ・・・
とかなんとか・・・
しかし、
そこはさすが人材の宝庫中国の面目躍如、
ちょうどその時、
大変優秀な総理大臣がいた。
名は、
寇準(こうじゅん)。
戦争なんかイヤだとだだをこねる真宗を説き伏せ、
ムリヤリ前線へと連行、
両軍、力が拮抗していたため、
せん州で膠着状態となる。
結局、
両軍は講和条約を結び、
戦火を交えることなく戦争は終結。
結んだ講和条約の内容が、
冒頭で見た通り、
宋が遼に金品を贈る見返りとして、
国境は現状維持。
これだけ見ると、
一方的に宋が遼に負けたかのように見えるが、
そこは宰相、寇準にぬかりはない。
宋は、
お金で平和を買い、
以後200年間、
北方民族との間で領土問題でもめなかったため、
経済的繁栄をほしいままにすることができたのに加えて、
もともと、
絹織物などを身につける習慣のなかったキタイ、
いったん味わったぜいたくをやめることはできず、
結局、宋から大量の絹織物を輸入することに・・・
まずはタダで商品をばらまき、
お客がその商品なしではいられなくなったころを見計らって、
大々的にフランチャイズ展開をする某企業のやり方そっくり・・・
てか、
おそらく、
某企業がせん淵の盟にならったというのが正しい・・・
長い目で見ると、
宋が遼に支払った以上の金額の絹織物などのぜいたく品を輸入、
ODAとして宋が遼に贈ったお金は、
何倍にも化けて宋に還流しました!
めでたし、めでたし・・・
一部ゼネコンや政治家の私腹を肥やすだけなんじゃないの?などと陰口をたたかれることもあったどこぞの国のODAの原型はこんなところに・・・???
・・・ということで、本日の結論 :
人生ヘタを打ちたくなければ、
中国4000年の歴史に学べ!
・・・
さて、
中国を苦境から救った殊勲賞ものの寇準だが、
宰相としてその後崇め奉られることなく失脚してしまうところもまた、
とても中国チックで、
アホな皇帝真宗には、
同じくアホな、
というか、
取り入るのが天才的にうまい策士がいて、
王欽若(おうきんじゃく)っていう名前なんだけど、
ちなみに聖宗の軍が南下してきた時、
まっ先に南へ逃げようと真宗に進言したのが、
この王欽若。
結局、
あの時お前の言うとおりすたこらさっさと逃げてたら、
今の宋はないだろう・・・なんて言われて頭にきた王欽若が、
レベンジするべく、
寇準を失脚させようともくろんだってことなんだろうけど、
うまく言いくるめられた真宗、
なんと、
寇準をクビにし、
左遷してしまう。
1006年、
せん淵の盟からわずか2年後のことである。
地方に飛ばされた寇準、
失意のまま、当地で没しているが、
死後11年たって名誉回復されている。
ちなみにアホ皇帝の真宗が死んだのは1022年。
寇準は1023年没。
寇準を失脚させた2年後の1008年、
真宗は中国の皇帝として歴史上最後の封禅(ほうぜん)を敢行、
アホ皇帝らしく、
多大な税金のムダ使いを行っている。
封禅というのは、
中国で古くから行われてきた儀式で、
帝王が天と地に王の即位を知らせ、天下が太平であることを感謝する目的で行われ、
秦の始皇帝も、皇帝になったのちの紀元前219年に、泰山で封禅の儀を行っている。
(始皇帝、および、同じく封禅を行った武帝についてはこちら→ライフネット生命の出口社長に歴史を学ぶ (19)司馬遷を去勢して史記を書かせた武帝 - Victoriaの日記)
秦の始皇帝の時代には、
敵方の神様を鎮めるという意味があった封禅だけれども、
もちろん、真宗の時代にそのような意味は薄れており、
単なるパフォーマンスに過ぎなかった。
せん淵の盟をめぐる一連のゴタゴタで、
地におちた自らの名誉を挽回するために、
山に登って神様にお祈りするというパフォーマンスを派手に行ってはみたものの、
そこはアホな皇帝のすることなので、
国費を疲弊させたと後世の批判を浴びる結果となっている。
真宗の後、
宋では心配性な皇帝が続き、
お金で平和を買う政策をとりながら、
100万の常備軍を作ってしまう。
そんなこんなで、
宋はいつもお金がなく、
財源確保するために税をアップ、
それに伴って歳出もアップ、
平和ってのは、
昔からコストがかかったのね・・・
・・・
さて、
この頃、
東アジアでは権力の空白ができたので、
どんどん新しい国ができていった。
1038年、タングート族が西夏建国。
1044年、パガン朝がビルマ最初の統一王朝を建国。
スリランカから上座部仏教を取り入れ、仏教文化が栄える。
これが仏教伝播の第3波で、
ビルマからタイのスコータイ朝へとさらに仏教は伝播していく。
新しい王朝というのは、
前の人たちとは違うことをやりたがるもので、
パガン朝は、
どちらかというとマイナーだった上座部仏教を取り入れ、
タイもそれにならい、
それがひいてはカンボジア、ベトナムへと広まっていく。
ちなみに仏教伝播の第一波は、
国家仏教として大乗仏教が中国に入ってきた紀元1世紀、
第二波は、
密教がインド→チベット→モンゴル→唐へ入ってきた6〜8世紀、
第三波が、
パガン朝→東アジア全域へと上座部仏教が入ってきた11世紀。
上座部仏教は、
別名、小乗仏教ともいわれ、
歴史的には一番古いんだけれども、
伝播した順番でいうと一番新しく、
新しいもののほうが勢いがあるから、
アジア全体に広がっていった。
・・・ということで、本日の結論 :
せん淵の盟で遼にいくらお金を贈るかって話をしてる時、
真宗は「100万までは出してもええで」って言ったらしいんだけど、
賢い寇準が遼側の使いの者に、
「30万以上を要求してきたら使いのお前のクビを斬ったるで、わかっとるやろーな」
と脅したっていう・・・
寇準さま☆ステキ!
Victoriaでした。
・・・
ライフネット生命の出口社長に歴史を学ぶ Part 4 バックナンバーはこちら。
ライフネット生命の出口社長に歴史を学ぶ Part 4 (1) 京都大学百周年時計台記念館 - Victoriaの日記
ライフネット生命の出口社長に歴史を学ぶ Part 4 (2) 唐宋革命 - Victoriaの日記
ライフネット生命の出口社長に歴史を学ぶ Part 4 (3) 中国でてん足が広まった理由 - Victoriaの日記