ライフネット生命の出口社長に歴史を学ぶ Part 6 (18) 1351年 紅巾の乱

こんにちは。Victoriaです。

2013/04/14(日)、京都大学百周年時計台記念館で開催された、
ライフネット生命の出口社長に歴史を学ぶ Part6 14世紀の世界」講義録のまとめ、
今回は「1351年 紅巾の乱」。




さて、
ユーラシア大陸の寒冷化+ペスト大流行で、
北京のモンゴル政府はなすすべがなく、
天の神様にひたすら祈るのみという状況の中、






食べ物がなくなる+モンゴル政府の警察力低下により、
中国の華北・華中は大混乱、
南北の行き来がストップ、






自由に物資の行き来ができてこそのグローバリゼーション、
パックスモンゴリアだったはずが、
国の大動脈が断たれてしまって、







揚子江流域でとれる米が、
当時としては世界最大の消費地
大都に来なくなる。







大都というのは、
運河を使って海に開かれた都であるところに、
真骨頂があったのに、
江南の食糧が北京に届く道が半分になってしまって、







大元ウルスは、
海・陸、両方の道が断たれたことになる。







どうする?モンゴル?







どうするもこうするも、
モンゴルは衰退の一途をたどり、
1367年、
ついに中国で、
明建国、







陸が海に勝ったということなんだけど、








今回は、
明の初代皇帝、朱元璋が出てくるきっかけとなった、
紅巾の乱のお話。







・・・


まず、
山川出版社世界史用語集を見てみると、

世界史B用語集 改訂版

世界史B用語集 改訂版





紅巾の乱(白蓮教徒の乱):1351〜66。元末の白蓮教などの宗教結社を中心にした農民反乱。紅色の頭巾を目印とした。黄河治水工事に徴発された農民を韓山童(かんざんどう)が弥勒下生説で扇動して反乱を計画したが、未然に発覚して殺害されたため、子の韓林児(かんりんじ)が指導して、大農民反乱に発展した。







朱元璋(しゅげんしょう):1328〜98。明の初代皇帝(在位 1368〜98)。濠州の貧農出身。1352年紅巾軍に参加し、しだいに指導権を握り、1366年韓林児を殺して、華中・華南を平定した。1368年帝位につき、明を建国、大都を攻略して元の残存勢力をモンゴル高原に退けた。







まず、
紅巾の乱の別名ともなっている、
白蓮社ですが、








402年、
慧遠(えおん)が廬山(ろざん)で、
百連社という、
浄土教の念仏結社を開いたのがそもそもの始まりで、







もともとは、
受け身の教えであった阿弥陀信仰の秘密結社だったのが、







その一部が南宋で、
浄土教から分かれて純化
白蓮教という、
反体制集団へと変貌、







大元ウルスの時代に、
弥勒信仰が混入し、
ついには韓山童が決起するに至るわけなんだけど、







弥勒信仰のどこが過激なのか?







阿弥陀信仰というのは、
南無阿弥陀仏を唱えていれば救われるという受け身な信仰なのに対し、
弥勒信仰というのは、
南無阿弥陀仏と唱えているだけじゃなく、




行動しようぜ!
実力行使しないと、
浄土は来ないぞ!







という考えで、
世直しを強く希求、








要するに、
革命思想が強かった。







ということで、
最後は政権をひっくり返すほどの政治力を持つようになったわけです。







朱元璋という人は、
もともとは白蓮教徒だったけれど、
皇帝になるや、
白蓮教を弾圧、






ただ、
白蓮教時代は、
その後も生き続け、
清の時代にも大反乱を起こしている。








1356年、
朱元璋が南京で自立、







この時の軍師が劉基(りゅうき)で、








彼は「三国志演義」の諸葛孔明のモデルになった人で、
大変頭のいい参謀だった。







1367年、
蘇州の戦いで張子誠(ちょうしせい)を破った朱元璋は、
ついに頂点に上り詰め、
明開国、
初代皇帝となり、
元号を洪武と改めたことから、
光武帝と呼ばれる。







朱元璋というのは、
家族が全員飢え死にしたとの伝説のある貧農出身で、
中国のみならず、
全世界で、
最も悲惨な境遇から身を起こした王朝創始者で、






一方、
朱元璋と戦って敗れた張子誠というのは、
大元ウルスに食糧を運んでいた海運王で、
よっしゃ、
オレが王様になってやろうと、
朱元璋とやりあって、
負けてしまい、
結果として大元ウルスが命脈を絶たれることにつながったわけだけど、







この二人の戦いは、






陸でなりあがった朱元璋 VS 海で成り上がった張子誠







陸 対 海の戦いは、
陸に軍配が上がり、
グローバリゼーションは一休み・・・







朱元璋は、
他人を一切信用しない人間で、
功臣を殺し続けたことで有名、







劉基さえも、
例外ではなく、
1375年に殺されているんだけれども、







たった一人、
心を開いた人物がいた、







馬皇后(ばこうごう)。







朱元璋の正妻です。






馬皇后は、
朱元璋が紅巾軍に入った時の、
大将のお嬢さんだった人で、







大将が、
朱元璋を気に入り、
娘を嫁がせた。







お嬢様出身だったにもかかわらず、
馬皇后は大変質素で、
常におごることなく、
猜疑心の強い夫を支えたという。







最期は、
病気で夫よりも先に死んでしまうんだけど、






病床に送られた医師をすべて追い返し、
処方された薬を飲もうとしなかった。






なぜなら、
もしも馬皇后が死んでしまったら、
きっと夫の朱元璋が、
医師の責任を問うて、
殺してしまうことが目に見えていたからだ。






馬皇后さま、
なんてすばらしい!
女の鏡のような方・・・






こういう話を聞くと、
朱元璋は、
ホント、
イヤなヤツだったにちがいないと思いつつ、
いやいや、
きっと素顔は、
傷つきやすい繊細な人物だったのよ・・・なんて思ってしまう・・・






朱元璋はこの方。

ウィキペディア・コモンズより引用。







実際、
朱元璋が大粛清を始めるのは、
馬皇后が亡くなってからのことで、






もう少し、
彼女が長生きしていてくれたら、
歴史は変わっていたのかも・・・








Victoriaでした。