自分との果たし合い

こんにちは。Victoriaです。

今日、ステキな出会いがありました。

この方です。

画家の堀文子さん。

実は、今まで掘文子さんのことは知りませんでした。
しかし、今日、この本を読んで、
「こんなすばらしい方が日本にいらっしゃったのか」
と衝撃を受け、早速調べたところ、
いろいろな本の挿絵や表紙などをお描きになっているので、
それとは知らずに、いつか、どこかで、作品は拝見していたんですね。

この本は、尊敬する日野原重明先生との対談集です。
日野原先生99歳、堀文子さん92歳。

日野原先生は、今年のVictoriaの生き方を大きく変えてしまった方なんですけど、
ボランティアのすすめ 日野原重明先生 - Victoriaの日記
堀文子さんも、同じくらい大きなインパクトがありました。

早速、今日からVictoriaの人生の軌道修正が始まりそうな予感。

堀文子さんの作品については、たくさん画集などもお出しになっていらっしゃるので、そちらをご覧いただくとして、
堀文子さんの人生そのものが、すごい迫力なんですね。

なので、少しここでご紹介。

<堀文子さん 略歴>
1918年生まれ。
幼いころから自然に興味を持ち、科学者を夢見るが、当時は女性が科学を勉強する環境はなかったので、女子美術専門学校(現・女子美術大学)で日本画を専攻。
1946年、28歳の時に結婚。
1960年、43歳の時に夫と死別。翌年から3年間、世界中を放浪。
49歳、「ものを創る人間は都市に住んではいけない」との思いで、東京から神奈川県大磯に転居。
12年後には軽井沢にアトリエを構える。
69歳でイタリアにアトリエを構え、5年間、トスカーナの豊かな自然を描く。
70歳代から80歳代にかけて、アマゾンの熱帯雨林、メキシコのマヤ遺跡、ペルーのインカ遺跡、ネパールのヒマラヤ山脈などを巡る。
2001年、解離性動脈瘤に倒れるが、自然治癒。病後は顕微鏡の下で繰り広げられる極微の世界に没頭し、92歳の現在も作品を描き続けている。


日野原先生もバイタリティあふれる方なんだけど、堀文子さんも同じくらい精力的なお方。

堀文子さんは、81歳の時にヒマラヤの標高4500メートルの高地に咲く幻の花、ポピーを見るためにネパールへ。
日野原先生も、どうしてもヒマラヤを見たくて、2005年、93歳の時に行ってきたそう。

その日野原先生が、堀文子さんに会ったときに、
「こんな人にはこれまで会ったことがない」
と衝撃を受けたそうです。

日野原先生いわく、
「身体が傷つくのを恐れて防御的な生き方をするのではなく、前向きに自分の可能性を広げようとする姿勢が、老いのもたらす心の衰えを寄せ付けないのだろう。堀文子さんは、アンチ・エイジングのよいお手本である」。

堀文子さんは、5歳の時に関東大震災を経験しています。
目の前で大火が起き、大人たちが放心状態になっているのを見て、
「形あるものはすべて滅ぶ」
という無常観に貫かれ、何もほしがらない物欲のない人間になった。

また、昭和11年には2・26事件を目撃。
何百人という銃剣をつけた兵隊が自宅の庭を通り過ぎていくのを見て、死への予感と、目前に迫り来る戦争の気配を如実に感じた。

日野原先生も、昭和45年、58歳の時によど号ハイジャック事件に巻き込まれています。
乗っていた飛行機を赤軍派が乗っ取り。
その時は死を覚悟し、犯人が持っていたドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」を借りて読んだとおっしゃっています。

ハイジャック事件の現場で、どうやって犯人がドストエフスキーを持っているということを知り、どういう経緯でそれを日野原先生が借りて読むことになったのか、ぜひそこが聞きたい・・・

90歳を過ぎても精力的に仕事をこなしていらっしゃるお二人。
健康法はお二人とも同じで、「あまり食べないこと」。

日野原先生は食事は一日一回。あとは飲み物だけ。
堀文子さんも、質素なものを少しずつ食べるだけ。ただ、決まったことがお嫌いなので、特に何と決めているのではなく、いろいろなものを食べているそうです。

この本には、全部、座右の銘にしたいほどの、お二人の珠玉の名言がつまっています。
ここで少しご紹介すると・・・

人の元気というものは「気」が、「心」がもたらすのであって、カロリーがもたらすのではない。(日野原)

風景は思想だ。(堀)

命というのは、君たちが使える時間なんだ。(日野原)

なかでも、一番衝撃的だったのは、堀文子さんのこの言葉。
絵を描くのは自分との果たし合い。

人生で、何かを成し遂げるためには、日々、自分自身の限界に挑戦しなければならない。

それを「自分との果たし合い」と表現された堀文子さんを人生の師として、

今日からまた、精進していきたいと思います。

Victoriaでした。