クイーン フレディ・マーキュリーのルーツ

こんにちは。Victoriaです。

クイーンのフレディ・マーキュリーは、日本が好きだった。
プライベートで来日した時には、骨董品などを買い集め、
ホテルでは和室に泊まり、日本式の酒風呂を楽しんだそうである。

自宅の庭にもツツジを植え、錦鯉を泳がせていた。

(このあたり、mugiさんのブログに詳しいので、興味がおありの方はご覧ください→フレディ・マーキュリーと私 その② - トーキング・マイノリティ




クイーンには、日本語で書かれた曲がある。



手をとりあって(Let us cling together)



日本語の部分の歌詞だけご紹介すると、



手を取り合って、このまま行こう
愛する人
静かな宵に
光を灯し
愛しき教えを抱き


フレディー・マーキュリーが、モンセラート・カバリェとのコラボレーションで作ったアルバム「BARCELONA」にも、
日本語の曲がある。



LA JAPONAISE



日本語の部分の歌詞をご紹介すると、



素晴らしい朝が明ける
夜明けが呼びかける
心の泉がわき出る
夢のよう

夜明け、季節、夢、希望
大海と光が呼んでいる

遠い国のあなたに魅せられて
あまりにも美しい、いい夢のよう
いつまでもいい
愛の光、希望と夢



フレディはイギリス人だが、、
パールシーと呼ばれるインドに住むゾロアスター教少数民族で、
イギリス領だったタンザニアザンジバルという島で生まれた。

8歳の時、インド、ボンベイにある全寮制のSt.Peters Schoolに入学するためにザンジバル島を離れる。
船に乗って大洋を渡り、鉄道、バスを乗り継いて、6日間の長旅だった。

規律に厳しい学校で、
フレディは、音楽、美術、スポーツに優れていたという記録が残っている。

そこで、フレディは音楽の才能を見いだされ、
ピアノのレッスンを始める。

同時に、学校では「Hectics」というバンドを作り、
ピアノを担当。

また、教会の聖歌隊に入り、そこでフレディは初恋をする。
相手は女の子。
男子校だったので、女の子と会えるのは、教会だけだった。

フレディの初恋は実らなかったが、
初恋相手の彼女はHecticsの大ファンで、

Hecticsの生演奏を聴くたび、鳥肌がたったと彼女は証言している。

また、この頃、フレディは男の子に向かって

"Darling"

と呼びかけるところを目撃されている。

ゲイの片鱗もこのころから見せていたらしい。

インド時代のフレディに関するインタビューはこちら。



こういうフレディの生い立ちを見ると、
日本が好きだということに何の違和感も感じない。

日本もインドもアジアだから、
同じにおいがするのだろう。

「恋人の数はエリザベス・テーラーよりも多い」
と豪語し、ロックスターらしいド派手な恋愛を繰り広げたフレディだが、
(このあたりもmugiさんのブログに詳しい→フレディ・マーキュリーと私 その① - トーキング・マイノリティ
亡くなったときには自分のルーツに戻り、
葬儀はゾロアスター教で行われた。

ゾロアスター教の教えでは、

"Life is a celebration."
(人生は祝典だ)
というらしいから、
まさに祝典そのものの人生を送ったフレディは、
立派なゾロアスター教徒だったといえる。




フレディが8年間を過ごした学校は、
標高1000メートル以上の高い山の上にあり、

おそらくそこから眺める景色は、
とてつもなくスケールが大きかったに違いないし、

インドとザンジバルを結ぶ船から眺めるインド洋も広大で、
特に、ザンジバルは夕陽の名所として有名らしいから、

幼少のころから、
フレディは広大な自然を眺めて暮らしていたはずで、

クイーンのコンサートは、
スタジアムで何万人もの観客を集めて行われ、
観客の数が多ければ多いほど盛り上がっていたけれど、

きっと、フレディにとっては、
大きなスタジアムで、
後ろまで見えないくらい大勢の観客の前で演奏するほうが、
広大な自然に囲まれて育った子どものころの心象風景に合っていて、
それがステージ上での爆発的なエネルギーを引き出す結果になったんじゃないだろうか。



Victoriaでした。