ライフネット生命の出口社長に歴史を学ぶ Part 5 (41) モンゴル軍が南宋攻略に手間取った理由

こんにちは。Victoriaです。

2012/12/02 京都大学百周年時計台記念館で開催された、
ライフネット生命保険の出口社長に歴史を学ぶ 13世紀の世界」講義録のまとめ、
今回は「モンゴル軍が南宋攻略に手間取った理由」








世界史を変えた年、
1260年は、
常勝モンゴル軍がエジプトのマムルーク軍に負け、
大西征にピリオドが打たれた年であるだけでなく→ライフネット生命の出口社長に歴史を学ぶ Part 5 (38) 常勝モンゴルが負けた日 1260年9月3日 アイン・ジャールートの戦い - Victoriaの日記












第4代皇帝モンケが没し、
クビライが第5代皇帝に即位した年でもある。










1259年8月、
モンケが遠征途上で急死したとの知らせを受けて、
大西征の指揮を執っていたフラグが大旋回し、
戦線を離れてしまったのが、
そもそもモンゴル軍が負けた原因であるので、
この二つの出来事は、
密接につながっているんだけれども、










なにはともあれ、
今回からクビライのお話の始まり、始まり〜♪
クビライについては、
「クビライによるグローバリゼーション」と題して、
出口社長のレジュメも5枚に渡っているので、
何が出てくるのか、ワクワク・・・









まずは、
1260年1月10日の、
クビライのクーデターの話をしたいんだけれども、









その前段階の、
クビライがクーデターを起こすまでの経緯について、
みてみたいと思います。






一回で終わるかな・・・


・・・


最初に、
出口社長がホワイトボードにお書きになった板書を振り返ってみたいんだけれども、


これ、
とっても重要な図で、
講義中、
何度もこれを使って説明なさってます。










これに、
各ウルスの戦力を書き加えてみました。

一応、
丸の大きさは、
戦力のでかさを示してます。











西に、
チンギス・カンの息子達の「西方三王家」。










それぞれの戦力は4000ずつで、
合計1万2000。











東はチンギス・カンの弟たちによる「東方三王家」で、
こちらは、
4000ずつではないんだけれども、
合計1万2000。










つまり、
西と東にまったく同じ数の戦力を配置しており、








チンギス・カンの、
見事なバランス感覚がにじみでていますね・・・













モンゴル国家全体の戦力は、
12万9000、

末子相続の伝統に従い、
本家で全軍隊を相続した四男トゥルイのもとには、
10万5000の兵があった。









以上が、
モンゴル帝国創始者チンギス・カンが配置した戦力図。









それで、
クビライは、
末子相続の掟に従い、
トゥルイから本家を相続することになっているアリクブケを差し置いて、
皇帝になろうとクーデターを起こすんだけれども、







モンゴル帝国の首都、
カラコルムには、
アリクブケがいたので、







クビライは、
金蓮川の草原を本拠地に選んだ。









地図で示すと、
こうなります。

黄色でマークしたところです。
中国の東北部です。








ちなみに、
この地図は、
杉山正明「クビライの挑戦」より拝借しております(p157)。









カラコルムから見ると、
ずいぶん、
中国寄りの場所で、









戦略上、
ここでなければならない理由があって、
ここに本拠地を置いたんだけど、









地図の上の方をご覧いただくと、
「カサル王家」「オッチギン王家」「カチウン王家」という、
「東方三王家」の名前が見えますね、









つまり、
クビライは、
東方三王家とは、
仲がよかったということがわかる。










クビライは、
モンケが皇帝に即位した1251年から、
ずっとモンゴル高原の東南に陣取って(中国側から見れば中国東北部)、
南宋を攻略しようとしていたが、











ちっとも兵を進めようとしないので、
しびれを切らしたモンケが自ら陣頭指揮にたって、
結果的に敵をやっつける前に、
自分が死んでしまったわけだけど、










実はクビライが足踏みしていたのには合理的な理由があって、










南宋のある南中国というのは、
大河と湖に恵まれた「水の街」で、
馬を走らせるのには適していない。











さらに、
河北と江南のあいだには、
ほとんど人のすまない荒れ地が広がっており、
食糧を手に入れることも難しい。










それに比べ、
フレグの大西征は、
距離からすればずいぶん遠くまで出かけているけれど、
東西移動なので気候はよく似ており、
しかも、
ユーラシアの大草原を横切っていくので、
馬を休ませる場所もあり、
モンゴル本土にいるのと大して違いはない。










そういうわけで、
距離で見ると、
ずっと近いはずの江南は、
モンゴル軍にとって、
大変遠い場所だったわけである。









さすがクビライ、
無駄足踏んだりしないのね・・・










ここまでの話を、
地図で表すと、
こうなります。









わかりやすくするために書いた地図だったが、
かえって???な感じなので、
文章でまとめ直します。











<モンゴル軍が南宋攻略に手間取った理由>



遊牧民族にとって、東西移動は得意だったけど、南北移動は障害が多すぎた。



  • 馬は寒気には強いが、江南の湿気と炎暑は苦手。
  • 遊牧民には夏期の散開放牧+冬期の集団越冬という生活パターンがあるが、このリズムを守りながら遠征するには南中国は遠すぎ(行って帰ってくるだけで終わってしまう)。
  • 黄河と長江の間の地域が荒廃し、食糧確保が難しかった。食糧を携帯するしかないが、つまり、長期遠征は難しいことを意味した。









さて、
クビライはどのようにして、
これらのハンディを克服し、
南宋を攻略するのでしょうか・・・???










Victoriaでした。



・・・


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ライフネット生命の出口社長に歴史を学ぶ Part5 まとめ - Victoriaの日記





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