ライフネット生命の出口社長に歴史を学ぶ Part 5 (43) 1260年、クビライのクーデタ=開平のクリルタイで皇帝に即位

こんにちは。Victoriaです。

2012/12/02 京都大学百周年時計台記念館で開催された、
ライフネット生命保険の出口社長に歴史を学ぶ 13世紀の世界」講義録のまとめ、
今回は、「1260年 クビライのクーデタ=開平のクリルタイで皇帝に即位」







1260年、
クビライは開平でクリルタイを開き、
皇帝に即位。









この時点では、
弟のアリク・ブケも皇帝になる気マンマンだったので、
兄が勝手に即位した知らせを聞いて、
争うようにカラコルムクリルタイを開いて皇帝に即位、









モンゴル帝国に二人の皇帝が誕生した。









1260〜1264年、
二人が皇帝職を争って起きた内乱を、
モンゴル帝国帝位継承戦争」と呼ぶ。










末子相続の遊牧民族のおきてに従えば、
弟のアリク・ブケが次期皇帝になるのが普通で、
しかも、
モンケが死んだ時、
クビライは遠征の途上で南中国にいて、
カラコルムで留守を預かっていたのはアリク・ブケだったし、










モンケとクビライは、
1255年ごろから不仲になり、
そのことは一族で周知だったので、
最初はみんな、
アリク・ブケを支持、
クビライの形勢は不利だったにもかかわらず、











クビライが、
まんまとモンゴル帝国第5代皇帝におさまることができたのはなぜ?












今回は、
クビライ不利の形勢を逆転するきっかけとなった、
「鄂州の役」についてみてみたいと思います。









・・・



まず、
モンケが死んだ時、
二人がどこにいたか、
地図で確認すると、

アリク・ブケはカラコルム










一方のクビライは、
南宋国に入るために、
今、まさに長江を渡らんとしていたところで、
モンケ死去の知らせが届いた。











今回の南征は、
モンケ自らが指揮をとっていたので、
大将が死んだとなれば、
当然、
計画は変更されなければならない。










このまま進んで南宋へ攻め込むか、
それとも、
退却するか、










ぎりぎりの選択を迫られたクビライがとった行動は、












緊急会議を開いてみんなの意見を聞く。













これが、
生涯続くクビライのスタイルで、











大事なことは、
ゼッタイに一人で決めないで、













「チーム・クビライ」とも言うべきブレーンと、
何でも協議して決めていた。












今回も、
早速ブレインを集めて、
緊急会議を開いたところ、










作戦を変更せず、このまま南下せよ












そんな結論が出た。











これは、
クビライ陣営にとって、
大きな賭けだったのだが、











兄、モンケとクビライが不仲だったことは、
みんなが知っている、
そこで、
あえてモンケの遺志をついで南下することで、
前皇帝の後を継ぐのは自分だということを強烈にアピールするのがねらいで、












ここまで、
何度も南征を繰り返してきたモンゴル軍は、
大河=長江で行く手をはばまれ、
南宋攻略は一族の悲願で、










もしも、
モンゴル軍にとって鬼門ともいえる長江を渡ることに成功すれば、
大将を失って士気の低下しているモンゴル軍を鼓舞することにつながり、












敵の陣地で孤立無援の戦いをしている味方の軍勢を救いだすこともできる。










そうなれば、
必ず、味方の軍勢は、
クビライの軍団に合流するはず、











正当な皇帝の跡継ぎだと主張するアリク・ブケを出し抜くには、
それしかない。









そんな結論を出したクビライ陣営は、












あえて人々の予想を裏切り、
先頭をきって長江を渡り始めた。











攻め入った先は「鄂州」。












そこには、
賈似道(かじどう)という南宋の軍人がいて、
この戦いでは、
結果的に南宋軍が勝ったのだが、













大事なのは勝敗ではなく、











クビライが、
自ら捨て石になって、
モンゴル軍の意地を見せたことで、











クビライ陣営の予想どおり、
なりゆきを見つめていたモンゴル軍は、
次々とクビライ軍団に合流、











あっという間に、
形勢逆転、
見事、世論の支持を得たクビライは、
さっさと鄂州を捨てて、
「大返し」とよばれるUターンをして北上、
開平に戻ってクリルタイを開き、
勝手に新皇帝を名乗ってしまう。











クビライ、
46歳の時だった。









たぶん、
三男に産まれたということと関係していると思うが、
クビライは1251年(37歳)まで、
どこで、
どんなことをしていて、
どんな人だったのか、
ほとんど何の記録も残っていない。










チンギス・カン一族の中では、
ダークホース的なポジションだったんだと思う。











モンケは数カ国語を操り、
数学はじめ様々な学問に通じていた知識人として知られているが、













クビライが、
個人としてモンケのように優秀だったかどうかは、
史料ではわからない。










たぶん、
学者肌ではなかったクビライは、
知識を自分の内部にためこむタイプではなくて、

自分よりも賢い人たちを周りに集め、
どんどん仕事を振っていくタイプだったんじゃないかと思う。









皇帝職は、
もともと自分のものだから、と、
のほほんと何もしなかったアリク・ブケは、
クビライにまんまと出し抜かれ、









一応、
カラコルムクリルタイを開き、
皇帝に即位はしたけれど、











最後には誰もついて来なくなり、
1264年、
アリク・ブケはクビライに降伏した。








クビライは、
結局、
兄モンケの葬儀にも出席せず、
モンゴルの首都ですらない場所で皇帝に即位してしまったので、
即位までの一連の動きを、
「クビライの乱=クビライのクーデタ」と呼ぶ。








ちなみに、
鄂州の役でクビライに勝った賈似道(かじどう)は、
その働きが認められて、
宰相にまで出世する。









後に、
クビライにコテンパンにやられ、
滅亡してしまった時の南宋政府を率いていたのは賈似道で、
そこにもおもしろい話があるんだけど、
それはまた今度〜♪








なお、
今回も、
杉山正明「クビライの挑戦」を参照しました。




Victoriaでした。


・・・


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ライフネット生命の出口社長に歴史を学ぶ Part5 まとめ - Victoriaの日記






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