ライフネット生命の出口社長に歴史を学ぶ Part 5 (44) 1260年にモンゴル帝国は分裂・解体したのか?

こんにちは。Victoriaです。

2012/12/02 京都大学百周年時計台記念館で開催された、
ライフネット生命保険の出口社長に歴史を学ぶ 13世紀の世界」講義録のまとめ、
今回は、「1260年にモンゴル帝国は分裂・解体したのか?」








1260年、
クビライがクーデタで皇帝に即位したことから始まった帝位継承戦争は、
1264年、
アリク・ブケが降伏することで解決したが、












この年を境に、
帝国全体がひとつとなって大遠征にでかけることはなくなり、










各ウルスが自立していくので(ウルスなどモンゴル帝国独特の用語の説明はこちら→ライフネット生命の出口社長に歴史を学ぶ Part 5 モンゴル帝国の歴史を読み解くための用語集 - Victoriaの日記









モンゴル帝国の分裂
モンゴル帝国の解体











などといわれるが、
果たして、本当だろうか?











答 : イエスでもありノーでもある。












たしかに、
1260年を境に、


がそれぞれ自立していったことは確かだが、











彼らが血みどろの権力争いをしていたかといえば、
実態は単なる主導権争いであって、
その証拠に、










モンゴルはモンゴルを殺さない








というおきてを守り、
ほとんど血は流れていない。







また、
このころ、
モンゴル帝国内で「ジャムチ」と呼ばれる駅伝制が完備され、
広大な帝国内の交通が便利になっていて、











本当にウルス同士が反目し合っていたのなら、
交通網が発達して自由な行き来ができたはずがないし、











ウルスが自立していったのは確かだけれど、
大カアン=クビライの命令は相変わらず絶対で、
他の君主の命令とは明らかに別格だったことを考えると、











1260年を境に、
モンゴル帝国は、
統一国家から連合体へと移行した








と言うほうが正しい。







・権力の多重構造
・連邦制










これがモンゴル帝国統治のキーワードです。









・・・


さて、
モンゴル帝国は決して分裂したわけではないとはいいつつ、
ふたつのモンゴル・ウルスが対立を深めたのもたしか、










まずは、
この地図をご覧ください。

これは、
杉山正「クビライの挑戦」p89から拝借しております。








1260年、
クビライが皇帝に即位した直後の地図です。









第4代皇帝モンケ急死の知らせを受け、
大西征でシリアに来ていたフラグは、
大旋回して、急きょ、カラコルム目指していた途上で、
兄クビライが即位したことを知り、











オレは皇帝になれそうもないから、
ここで自分の国作ることにしよう・・・










と、
イランに「フレグ・ウルス」を作る。→ライフネット生命の出口社長に歴史を学ぶ Part 5 (37) フレグ・ウルス=イル・ハン国の成立(+モンゴル帝国の歴史をもっと詳しく知りたい方のための参考文献ご紹介) - Victoriaの日記









現在のアゼルバイジャンのあたりなんだけど、
このあたりは豊かな草原のひろがるところで、
はっきり言って、
おいしい土地。










大西征の時、
軍隊を供出するなどして、
フラグに協力してきたジョチ・ウルスの主人ベルケ(バトゥの弟でジョチ・ウルス第5代君主)は、










協力してやったのに、
お礼もなしに、
いいとこ取りするつもりかよ?











ということで、
フレグ・ウルスとジョチ・ウルスというお隣さん同士の仲が、
急速に悪化、










だいたい、
兄弟とか親戚は、
近くにいるほど目障り(?)で仲が悪くなるものよね・・・











それで、
モンゴル同士の不和を見て、
ひゃっほーい!と思ったのがエジプト・マムルーク朝のバイバルスライフネット生命の出口社長に歴史を学ぶ Part 5 (39) マムルーク朝第5代スルタン バイバルスのキスワ寄贈 - Victoriaの日記










まんまと「ジョチ VS フレグ」の兄弟げんかに乗っかって、









敵の敵は味方











とばかりに、
ジョチ・ウルスと同盟関係を結んで、









フレグ・ウルスを南北からはさみうちにした。









実は、
ジョチ・ウルスのベルケと、
マムルーク朝のバイバルスには共通点があり、










ベルケは、
イスラム教徒になったほぼ最初のモンゴル君主で、








ジョチ・ウルスは、
大西征の結果、
領土が拡大し、
トルコ系のキプチャク族を大量に取り込んで、
「キプチャク・カン国」と呼ばれるように、
急速にトルコ化したので、









キプチャク人でイスラム教徒のバイバルスとは、
似たもの同士、










つまり、
ジョチ・ウルスマムルーク朝は、

利害関係が一致しただけでなく、
ことばや信仰も同じで、
手を結びやすい条件がそろっていたということだ。











南北からイスラム勢力にはさみうちにされたフレグ・ウルスは、
ヨーロッパ・キリスト教世界と手を結ぼうと目を西へ向けるようになって、











そんなこんなで、
ユーラシアは「国際政治の時代」へ突入していく。










・・・ということで、本日の結論 :








モンゴルの人たちって、
馬に乗ってホイホイ簡単そうに移動してるけど、
5000キロくらいの距離をへーきで動いてるわけでしょ?






どんだけ、
フットワーク軽いんだろ・・・







なんか、
信じらんない・・・










人間の体力って、
計り知れない・・・









Victoriaでした。


・・・

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ライフネット生命の出口社長に歴史を学ぶ Part5 まとめ - Victoriaの日記







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