理屈と道理

こんにちは。Victoriaです。

2011/02/26朝日新聞be「磯田道史のこの人、その言葉」に三浦梅園の言葉がのっていました。

理屈と道理のへだてあり。理屈はよきものにあらず。

磯田先生によると・・・

三浦梅園(1723〜1789)は、日本人のほとんどが迷信や陰陽五行説にとらわれていたとき、西洋近代の科学哲学に
ひけをとらない思考を、大分の寒村で繰り返していた奇跡のような人物。

8歳の時、家に近江八景の屏風があり、夜雨の情景が描かれているのを見て
「暗黒の夜、こんなに雨は見えない。風情としてはいいが風景としては不可だ」と言った。

人々が当たり前と思っていることに決してだまされない子で、
「石を手に持ちて手を放せば地に落ちるは、いかなる故ぞ」
と問えば、普通の人は
「重きによりて落ちる也。知れたる事」
と思考が停止するが、彼は徹底して疑い、重力・引力の存在にまで思いが及んだ。

ついには、西洋の天文学も学び、江戸中期の日本で宇宙と世界をもっとも理解した人物になっていた。

・・・
それで、「理屈と道理のへだてあり。理屈はよきものにあらず」という言葉の意味ですが・・・

これは、人間が作った理屈と自然の道理は違うという意味。
親が羊を盗んだとして、その子に、たとえ親でも悪は悪なのだから、訴えなさい、というのは理屈。
たとえ悪でも親の悪事なら、隠したくなるのは道理。
だから、理屈と道理は違う、と言い、三浦梅園は人間の作った理屈にとらわれない道理の探求を重視したという・・・

・・・
三浦梅園は、科学哲学の世界における「理屈=通説」と「道理=真理」について言っていますね。
スケールが大きく、かつ、深遠な思想ですね・・・

こういう方が歴史の節目節目に登場なさると、国が方向性を誤ることがないという、そういう方です・・・

国の方向性より、明日の我が身のほうが大事なVictoriaがこの言葉を解釈すると、
「ごちゃごちゃと理屈をこねくりまわしても、結局、物事、なるようにしかならない。時間がたてば、すべて物事はあるべきところに落ち着くものだから、大変な時は嵐が過ぎるのをじっと待ちなさい。そして真実がおのずと明らかになるのを待ちましょう・・・」
三浦梅園の言わんとするところからは、ずいぶんとズレてますね・・・
Victoriaにスケールの大きい深い思想は語れません・・・残念ながら・・・
・・・
ということで、何かメンドーなことが持ち上がっても、極力深く考えず、自然に解決するのを待つというのが、いつの間にか自分のスタイルに・・・

まあ、どっちみち、理屈でメシは食えないからね・・・

Victoriaでした。